• 「シゲコラム」  

      齋藤滋子院長が提供するおはなし

     

     

    月刊サイトウ歯科で10数年に連載されていたコラムです。

    サイトウ歯科・磐田 院長 齋藤滋子の子供時代の話から歯の話まで独自の視点で書いています。

    どうぞ、お楽しみ下さい。

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    滋子先生心の旅

    「伊予大洲・1」

     誰もが持っている自分だけの場所。そんな心の中にある思い出の場所の話をしてみようと思います。

     

     私の郷里、伊予大洲は、盆地の真ん中を肱川(ひじかわ)が流れる、伊予の小京都と言われる所です。肱川は、夏には屋形船が出て鵜飼いが行われるような美しい川です。昔は現在の状況と違って、もっと水が澄んでいて、亀がいたり、川辺の砂利を手で掘るとシジミが取れたりしたものです。小学校にはプールがなかったので、夏の水泳の授業は、肱川で行われていました(下の写真)。

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    夏休みの午後には、10日間程の水泳学校が開かれ、泳ぎの好きなおじさんたちが先生になって、たくさんの子供たちに泳ぎを教えてくれました。我が家は肱川のすぐそばにありましたので、家から水着を着たまま河原を走って行ったものです。肱川の流れはそれ程急でもなく、浅瀬も深場もあり、子供たちの泳ぎのレベルによって班分けされ、練習する場所は選ばれていたようです。習い始めの頃は、岸辺に両手をついてのバタ足練習や、もぐって川底の石を拾ったりすることでした。次第に水に慣れてくると、面つき亀泳ぎ(犬かきと同じようなもの)、横泳ぎと、深場でも泳げるように訓練されてゆきました。そして上級になった時には、生徒の数も減るので、川の向こう岸に渡ったり、数メートルもある城山の大岩や木の枝から飛び降りたりと、現在では考えられないような大胆なことをさせてもらったものです。

     水泳学校の最終日は水泳大会でした。先生が川の中に小皿や茶碗を投げ入れて、いっせいにとりに行く宝探しが恒例行事でした。“このあたり”と思っても流れがあるので宝の場所がわからなくなってしまい、いやがおうにも深くもぐって目をあけなければいけませんでした。水泳学校も、肱川も、本当に大好きでした。

     

    小学校5年の時、神伝流をもっと習わないかと誘われて、そこで初めて、神伝流を意識するようになりました。今まで水泳教室で教えてもらっていたのは、クロールや平泳ぎのような近代泳法ではなく、川ならではの伝統的な古式泳法だったのです。大洲は神伝流、正確には神伝主馬流(しんでんしゅめりゅう)の発祥の地です。言い伝えによると、江戸時代、大洲藩主加藤貞泰の重臣加藤主馬光尚が川辺を歩いていた時、柳の枝が流転漂浪するのを見て深く悟り、泳法を創始したと言われています。その後、大洲藩の武術として受け継がれ、松山、岡山、倉敷、東京・・・と、全国に広まっていきました。古式泳法には、神伝流の他に鹿児島の神統流から水戸の水府流まで全国に12の流派が伝えられています。そして、毎年夏になると、全国の古式泳法の精鋭が集って日本水泳連盟主催による日本泳法大会が開かれています(写真1)。

     

     日本泳法大会は、オリンピックのように速さを競うのではなく、各流派の型の正確さや泳ぎの美しさなどを競う大会です。順位の決定は、50メートルプールの脇で20人程の審査員が見ている前を、一人ずつ泳いで点数がつけられることによって決まります(写真2)。私も、この日本泳法大会にでるために、特訓が始まりました。

     

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    滋子先生心の旅

    「伊予大洲・2」

    前回の続き。

     

     40年近く前の話ではありますが、私達には肱川しかありませんでしたので、夏休みに入ると毎日何時間も川にいて、真っ黒になって泳ぎました。しかし、川は天気が悪いと遊泳禁止ですし、8月のお盆には泳いではいけないという言い伝えがあったり、それを過ぎると水が冷たくなったりで、特訓と言っても正味1ヶ月程でした。生徒は4~5人、先生はたいてい田中寅雄丸さんという大工さんで、夕方になると仕事の終わったおじさんたちも合流しました。田中氏は20年程前に亡くなられましたが、当時は神伝主馬流の無形文化財として大洲市から指定され、祭りや寒中水泳などのイベントでは甲冑を着て神事として泳いでおられました。

    (下の写真は、大洲市教育委員会パンフレットより抜粋したものです。)

     

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     寅雄丸先生が一番やらせたのは岸辺に手をついて基本のあふり足(あおり足のこと)の練習をすることでした。それは丁度野球で何度も素振りをするのと同じだと思いますが、まさに手取り足取りの指導で何度も繰り返しやらされ、水を蹴る度に手が砂利の中に埋まっていったものです。


      あふり足はいわゆる横泳ぎの足で、体を横にした時上の足は膝と足首を曲げて前に出し、下の足は膝を曲げ足首を伸ばして後ろに引き、両足を同時にかいて水を挟みこみ、足を伸ばすやり方です。神伝流では、平泳ぎの様に上体が平になっても足はあふり足ですし、立ち泳ぎでも両足を前後に交互にあおって水を挟み込みます。あふり足の蹴り始めの足のポーズは一番注意されたことでしたが、このポーズがきちんと決まると、強く水を蹴って挟み込めるので、大きな浮力と推進力がつき、1かきで7~8メートル進む事も出来、25mのプールなら横泳ぎを3~4回することで泳げるほど効率よくなります。この練習で身に着けたポイントは、最初の足のポーズと、ザバッと蹴る力強さと、蹴り終わると同時にスッと力を抜いて両足が美しくそろうこと、その3つでした。


      日本泳法大会は流派によって泳ぎ方が違うので、予選の規定では、平体・横体・立体の3種類を泳がなければなりません。どの流派にもたくさんの泳ぎ方があり、大会に出るにあたってはそれぞれ自分の得意なものを決めればよいのですが、大洲のものは他と比べると地味で実用的であるために点を取りにくく、しかも競技が行われるようなプールではなく川で練習していたのも大洲だけでしたので、とても不利でした。現在では、日本泳法大会は修善寺のサイクルスポーツセンターで毎夏開催されており、シニアのクラスとジュニアのクラスにと分かれていますが、当時は奈良の天理大学のプールで年齢制限なく行われていましたので、大洲はいつも最年少で大人と戦っていました。もっとも、自分達は勝つことなどあまり考えてなく、先生に連れられ、連絡船に乗ったり電車を乗り継いだり、生まれて初めて50mプールを見たりと、うれしくてしょうがなかったのでした。

     

     下の写真は、大洲市教育委員会のパンフレットからの抜粋です。「○日本泳法大会参加」の欄に、「特に昭和44年に参加した弘岡滋子(斎藤滋子の旧姓です)は1位を獲得して、大洲神伝主馬流の名を全国に高めた。」と書かれています。

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    大洲市教育委員会製作のパンフレット

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    滋子先生心の旅

    「伊予大洲・3」

     さて、そんなこんなで、最初の年は全く記憶に残っていないので、多分予選落ちだったのではないかと思います。それでも毎年出場し、中2の時、突然3位に入賞しました。大洲神伝流初めての快挙ということで愛媛新聞に載り、知らない方から励ましのハガキを頂いたりして、自分だけの喜びではないことを知りました。

     

     翌年は6位、その次の年、高1の時には優勝しました。寅雄丸先生が喜んでくださったのはもちろんですが、その頃、大洲には加藤家の殿様がまだ生きておられ、(フーテンの寅さんの映画、「寅次郎と殿様」の通りの殿様でした。大洲の景色もでるので是非見てください。)寅雄丸先生と一緒にお屋敷によばれ、お祝いしていただいたのが、とても嬉しく素敵な思い出です。


      大会では基本の泳ぎを選んでいましたので、それらを練習してはいましたが、寅雄丸先生は、それ以外のものもたくさん口伝で教えて下さり、今思えば、大会のためばかりではなく、水になじむことや伝統を目的にしておられたのかもしれません。

     

     たとえば私が好きだったのは、

    • 後ろに伸ばした両手で水面に小さな水しぶきをあげながら足だけで泳ぐ「千鳥泳」
    • 両足指で扇子等をつかんで手だけで泳いで浮き、足を沈めないよう体を上向き、下向きとくるくる翻す「車返し」
    • 後ろから追ってきた敵に水しぶきを浴びせながら逃げる「抜き手」
    • 波を立てずに歩くように泳ぐ「真の泳形―しんのおよぎかた」
    • 川底にべったり腹ばいに沈む「水入―すいり」
    • 浮身の「いかだ」「水枕」  などなど。

     特に浮身は頭の方に伸ばした手先から足先まで上向きで水面にプカーッと浮くわけですが、これが結構難しく、体のどこかに力が入っていると足が沈み、顔しか浮きません。水になじんで力の抜き方が解ってくると、足がスーッと浮き上がってくるのです。これは快感です。丸太の様にぷかりぷかりういているのですから。何人かの浮身をしている人が互いの足を両手で持ちつながって浮くのが「いかだ」。一番難しいのが浮身からバランスをとりながら片手枕に横向きに寝ている状態にする「水枕」。これをしている寅雄丸先生はまるで涅槃像のようでした。水枕ができると素晴らしくいい気持ちで、そのころは気付きませんでしたが水面での瞑想だったのかもしれません。


      高1の夏休みは、午後は毎日薄暗くなるまで水の中でした。大洲盆地は山の間に川が流れていますので、山の端に夕日が沈む頃になると、川面に夕焼けが映り、そーっと泳いでいるとピタピタピタと茜色や金色の波紋が広がって、静かで、きれいで、体が水に解けてしまいそうでした。
      

    大好きな肱川でしたが、受験のこともあって、私の神伝流はこの年でおしまいにしてしまいました。

    寅雄丸先生と私

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  • 11

    滋子先生心の旅

    「伊予大洲・4」

      現実にはもう存在しないけれど、自分の心の中にははっきりと残っている情景があります。目をつぶると、景色も音も匂いも感触も思い出せるのに、実体は何も無い。「ああだったよね!」と確かめてみたいのに、そうするすべも無い。頭の中を、直接映像化できればいいのに。黒澤明監督の「夢」という映画のように・・・・。

     

     そんなたわいもない事を考えるのは、夫がよく、子供の頃の「さなぶり」の話をしてくれるせいかもしれませんが、田舎ながらも町中で育った私は、農家のことを殆ど知りません。話を聞きながら、あぜ道を歩く少年の姿を想像します。


      そこで思い出したのが、私の故郷の事。思い出したら、頭から離れなくなってしまったので、今回書いてみることにします。
      愛媛の大洲地区では、少なくとも昭和30年代前半までは「おいのこさん」の行事がありました。10月か11月頃の夜、近所の男の子たちが数人、わらで作ったバットのような物を持って「おいのこさん、つかせて下さいや」とやってきます。OKが出ると、おいのこさんの歌を歌いながら(唱えながら)わらのバットをバシッ、バシッと振りたたくのです。暗い中、玄関の電灯で橙色に浮かび上がった少年達の姿と、わらを叩きつけた響きを思い出します。歌はうろ覚えながら、こうです。
      「おいのこさんという人は、一で俵をふんまいて、二でにっこりわーろうて、三でさーけをつーくって、四つ世の中よいように、五ついつものごとくなり、六つ無病息災に、七つ何事ないように、八つ屋敷をたてひろげ、九つ小倉をたてひろげ、とおでとおとお、おさまったー、おさまったー、ここの屋敷はよい屋敷・・・・・」
    終わるとおだちんをあげたと思います。家の繁栄を願う歌だったのでしょうか。


      秋祭りには獅子舞が家々を回ってきました。小学校同級のイタズラッ子のN君やY君が、白く化粧、赤い口紅つけ、赤い花柄の着物を腰までたくしあげ、「サル」として獅子の鼻先でひもをクルクル回しながら、ピョンピョンはねて踊り、獅子をからかいます。タンタタッタ、タンタカタッタという太鼓の音にあわせてサルも獅子も軽快に踊り、舞が興じるとダダダダッと獅子がわらじのまま家の中にまで飛び込んできたりもして大サービス。最後は獅子の口の中に和紙にくるんだ志を入れておしまい・・・というものでした。


      郷里の家は数年前取り壊され、更地になり、駐車場として利用されているようで、私は現実をまだ目にしていません。心の中の裏庭の畑や、夏みかんや柿、栗、枇杷などの木々を思い出しては、あのたくさんのセミたちは、土中のまま死んでしまったのだろうか・・・などと思ったりするのです。故郷を思う時、必ず思い出す、私だけの心の風景です。

     

     

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  • 12

    滋子先生心の旅

    ヨーガと出会うまで

      私は、横浜の曹洞宗大本山総持寺境内にある鶴見大学歯学部に進学しました。正確に言うと“鶴見女子大学”に入学。


     歯学部は新設3年目の女子だけの貴重な学校でしたが、翌年から突然男女共学となり、鶴見大学になりました。歴史的な?女子クラスで過ごした6年間を誇りに思っています。
     当時は体育館がなかったので、入学式は総持寺の大祖堂で行われました。歯学部・文学部・短期大学部全員と、多くの関係者が座ってもまだ余りあるほど大祖堂は広く美しく、式の荘厳さに圧倒されました。


     入学後、一泊参禅の授業があり、お寺の生活と坐禅を初めて経験しました。廊下の歩き方から食べ方まで、さまざまな作法があり、仏教を何も知らず、なまぬるく育った私にとって、とても刺激的でしたし、坐禅堂のひんやりと静まり返った空気や、低い読経の響きなど、まるで別世界で、すっかり魅せられてしまいました。部活で坐禅をしたいという友人はいませんでしたが、私はお寺に行きたくて、仏教青年会という部活に入り、他学部の仲間達と総持寺坐禅堂に通いました。


      坐禅は一回が約40分。(1ちゅうと言う)これは1本の線香が燃え尽きる時間だそうです。曹洞宗では壁に向かってひたすら坐ります。初め、頭の中でざわざわもやもやしていたものが、しだいに沈殿していきます。坐禅の後の総持寺境内は、木々の緑がことさら美しく感じられ、心が浄化されるようでした。ピカピカに磨かれた長い長い廊下を、黒い衣の雲水さん(修行僧)が袂に風をはらませて足早に駆けて行く姿は、“こんな美しい世界があったのか”と思える程感動したものです。福井の永平寺でも1週間の修行をさせていただいたことがありました。貴重な体験でしたが、修行の最後の頃は膝が痛くて這って歩いた記憶があります。
      で、悟ったかって?いえいえ、結局、何度坐っても足の痛さとしびれはなくならず、身体の硬さを痛感。だんだん熱が冷めた頃、ヨーガに出会ったのです。

      始まりはカルチャーセンターの一日体験講座。まだ、ヨーガブームのはじまる前で、教室にいたのは、黒タイツのおじさん先生と6人程のおじさん、おばさん達でした。おしゃべりをしながら足の指を揉み解すところから始まり、「オーム」というマントラ(例の宗教とは全く関係なし。マントラとは呪文のようなもの。オームは“宇宙の神様、今からヨーガをしますから、私の中に降りてきて導いてください”というニュアンスの呪文のことです)を唱えてから、簡単な体操?をしたり、寝転がったり、無理のないメニューでした。とりわけ、黒タイツ先生の「無理はしない」「マイペース」「身体の声を聞きましょう」といったお言葉が心地よく、アットホームな雰囲気もあって、またしてものめりこんでしまったのでした。好奇心いっぱいの21歳の頃のことです。

     

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    「ヨーガを始める人のために」田原豊道 著(池田書店)に掲載された滋子先生の写真